2013年1月25日金曜日

数学的素養


数学的素養とは、「数字を以って物事を判断する力」だと個人的には思っている。

主に小中高の算数ならびに数学で教え込まれるのは、今までに名だたる数学者が遺してきた数学的知識と、その思考のなぞり方である。

数字の扱いに始まり、四則演算、比率、関数、ベクトル、確率、微分などと拡張されていく。

これらの計算をこなせることを数学的素養というなら、それもそうかもしれないし、一般的にはそう思う人が多いだろう。
少なくとも数学が苦手な人間は、高度な計算をこなせる人はクールだと思う。
あるいは逆に、すっぱいぶどうの逸話のように「そんなこと出来ても役には立たない」と馬鹿にするかもしれない。

言うまでもなく、数学が出来ることはとても有意義なことだ。

昔の哲学者たちが数学を通して追い求めたもの、それは人類にとっての共通了解だ。
国語と数学を比較してよく言うだろう、「数学は答えがひとつ、国語は答えがいくつもある」。
これは意味するところはすなわち、数学は文章の問いかけの意味が一意に定まる、ということである。
普段使っている自然言語とは違い、ひとつひとつの単語の意味が厳密に定義されて、正解と不正解がはっきりと分かれる世界なのだ。
だから、ある問題の答えがだせないことはあっても、ふたつの答えがでることはない(はず)。

ちゃんと学んでいれば、必ず一つの結論に達するという点で、数字は共通了解を前提とした強い説得力をもっている。
数学は客観的だ。ごまかしが効かないとも言える。

そうした数学の強みを活かすには、数字を扱えるだけではダメで、その上にのせる論理がいる。
言語が話せても語る中身がなければ意味がないのは、数学も同じこと。


話が飛んで申し訳ないが、先日テレビで法哲学の授業をみていたとき、「他人に迷惑をかける行為」をどう判断するかが話し合われていた。
よく、「他人の迷惑になることをしてはいけない」と教育されるが、では「他人に迷惑をかける」とはなにか?という話になると、そこでより繊細な判断が必要となる。

例えば、公衆で煙草を吸ってはいけないのは何故か?というと、それは「他の人間に健康被害を与えるから」であるが、その健康被害とは、「受動喫煙により数年寿命が縮む」ことであり、その判断には数学や統計学をもちいた医学的判断が必要となるのはわかるだろう。

数学は、ある揺ぎの無い法則を見つけて、体系化していき、その前提の下に、内容をどんどん拡張していく。

対して法哲学は、大雑把に「ルール」を決めて、その線引きは実例や数字を見て決定していく。
言い換えれば、数学が演繹的で、法哲学は帰納的と言えるかもしれない。
別にどちらがいいということはなく、どちらも必要である。

であるから、狭義の「数学的素養」といえば、「高度な計算がこなせること」かもしれないが、そのレベルだけでは物足りない。
本来養われるべき数学的素養は「数字をもって判断基準を設定できる能力」だ。


だが、数学は万能かと言えば、そんなことは全くない。
ここからは哲学の歴史上の話になるので、興味のある人だけ読むといいだろう。

1900年代の前半、様々なジャンルの学者が所属したウィーン学団があった。
その主目的のひとつに、ヒルベルト・プログラムがあった。

ヒルベルト・プログラムは、自然言語のように曖昧な言語ではなく、数学によってこの世界のすべてを表現し、明解にしようという試みだった。

しかしこの夢はウィーン学団のゲーデルが主張した「不完全性定理」によって打ち砕かれてしまった。
数学では解決できない問題も存在する、という結論に至ったのだ。

つまり昔の学者達は、言語や数学のルールをいじくりまわせば、人は効率的に伝達できると思いこんでいた。
しかしながら、それは幻想だった。
普段使っている自然言語には誤解がある。だから誤解のない数学は重宝される。

しかしよくよく考えてみると、その数学を学ぶためには、自然言語による説明が不可欠なのだ。
自然言語に基づいた数学も、結局は曖昧性と戦うことになるのだ。

ただ、それを問題を解くときにおこなうか、伝達の際におこなうかの違いである、

多くの人は、曖昧な自然言語は使えても、厳密な数学は苦手だったりする。
だがその壁を乗り越えるには、結局のところ多くの問題を解いて、自分の理解の確度をあげるしかない。

それに数学には落とし穴がある。
それは、背景が見えない、ということである。

昨今は客観性をもつために何でもかんでも数量化するきらいがあるが、数字の力を過信するのは危険である。

というのも、数字は「圧縮されている」ことを忘れてはならない。
例えば、6個が多いか少ないか、という話になったとしよう。

そのとき、前提として、何が6個なのか、という話になる。
仮にりんごだとしよう。

では、りんごを何に使うのだ。
アップルパイか、ジャムか、そのまま食べるのか。

そもそも、何人で食べるのだろう?

大体りんごって言ったって、りんごの大きさには個体差があるだろう。
品種は何で、そのりんごの平均的な大きさはどれくらいだ?

それに予算はいくらだろう。
値段は?
単純に食べることだけ考えればいいのか?

というように、数字には前提がつきものである。
なので、前提をしっかりわかってないのに数字を読んだところで、それは分かったふりに過ぎない。
数字を読むと客観的に見ている気がするが、前提の捉えかたによって客観性は失われる。

これを利用したのが、所謂「数字のマジック」である。

だから数学的素養は別に数式をいじることではなくて、文脈を以下に読み取れるかである。
よく国語力と別物として語られるが、根本的には同じ力だと私は思う。

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